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しいたかのブログ

文章の練習、その他いろいろ

「私はあなたの痛みを感ずることは出来ない」(1)

 ウィトゲンシュタインは「私はあなたの痛みを感ずることは出来ない」*1という短い文章のなかで、「痛み」に関する他我問題を扱っている。

 まず、ウィトゲンシュタインは、「私はあなたの歯に痛みを感ずることは出来ない」という命題を例として挙げて、それについて以下のように述べている。

  第一の命題は有意味である。それはある経験的認識を表現している。どこが痛いのか、という問に対して、私はあなたの歯を指すとする。もし誰かがあなたの歯に近づけば、私はあなたと共にぎくっとする。要するに、私が痛みを感じるとすれば、それは私の痛みなのである。 もし人があなたの歯を押したとき、あなたが同時にその場所に痛みの兆候を示し、そして私の様にぎくっとするとしても、なおそれでも私が痛みを感ずるとすれば、それは私の痛みであろう。 

  少し分かりづらい箇所だが、このウィトゲンシュタインの発言の意図を簡潔にまとめると、およそ次のように言い換えることができるだろう。

「『他人の痛み』という表現は『他人の感じているその感覚』を指し示すものだ」というテーゼの帰結、それは何か。

 まず第一に、そのとき、「他人の感じているその感覚」を私が感じることは論理的に不可能となるだろう。私が感じたならば、それは私の感覚になってしまうからである。そして、私がじかに見てとれるのは他人の表情、ふるまい、発言といったことでしかないのであれば、私は「他人が感じているその感覚」という意味での「他人の痛み」について、その人の表情、ふるまい、発言から推測するしかないことになる。*2

 要するに、もしも他人の感じている「痛み」を自分に移すことが可能であった場合、その「痛み」を自分の感覚をとおして感じる以上、「痛み」はもはや「他人の痛み」ではなく「私の痛み」である、ということになる。

 「私は歯が痛い」という命題A、「あなたは歯が痛い」という命題Bがあるとする。命題Aは検証の終点であるのに対して、命題Bはそうではない。なぜなら、命題Bには、「あなたは歯が痛い」と思う「私」が隠れているからであり、命題Bは「私は、あなたは歯が痛い、と思う」という書き換えが可能だからである。「私」は、自分の経験や「他人の表情、ふるまい、発言」をもとにして、「あなたは歯が痛い」という推測をたてるのだが、「私」と「あなた」が同じ感覚を有する保証が無い以上、命題Bが検証の終点に辿り着くことはない。

 

※書きたいことがあったんだけど、その「書きたいこと」を書く前に疲れてしまったので中断してしまいました。時間がある時につづきを書きます。

*1:ウィトゲンシュタイン全集』第5巻(大修館書店、1976.10)所収

*2:野矢茂樹『哲学・航海日誌』(春秋社、1999.4)、p15